みぞれのブンガク [文学]

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2月最後の日みぞれが降りました。


夏に宮沢賢治記念館で自筆の原稿見て感動した「永訣の朝」

以前から聞いていた
「兜率の天の食(じき)に変わって」という箇所が
最初は
「天のアイスクリームに変わって」
となっていたのを見ることが出来ました。

みぞれが降ると思い出します。
少し長いのですが「永訣の朝」お付き合いください。


永訣の朝

宮沢賢治

けふのうちに
とほくへいってしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふっておもてはへんにあかるいのだ
      (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつさう陰惨な雲から
みぞれはびちよびちよふってくる
      (あめゆじゆとてちてけんじや)
青いじゅんさいのもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀に
おまえがたべるあめゆきをとらうとして


わたくしはまがったてっぽうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
      (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛いろの暗い雲から
みぞれはびちょびちょ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになって
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさっぱりとした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
     (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまってゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と氷とのまっしろな二相系をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あぁあのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに

やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
     (うまれてくるたて
     こんどはこたにわりやのことばかりで
     くるしまなあよにうまれてくる)
おまえがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが兜率の天の食に変わって
やがてはおまへとみんなとに
聖(きよ)い資糧(かて)をもたらすことを
わたくしのすべてのさひはひをかけてねがふ



この詩は賢治の2歳年下の妹トシの命が今まさに消えようとする際の詩です。
このとき賢治はこの「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」という3編の詩をつくります。


賢治は花巻の財閥ともいえる裕福な家に生まれ、金融業という生業から逃れるように
農民への、あるいは人類への愛を求めたとも言われています。
この思いが信仰(法華経)への道を深めていくことにもなります。
理想の世界(イーハトーブ)を願い、芸術と宗教の融合を目指した賢治。
トシはそんな賢治のたった一人の理解者でした。

「セロ弾きのゴーシュ」はご存知ですね。
ゴーシュのチェロに癒される動物たち。
「よだかの星」ではみにくいためにみんなから嫌われるよだかが、
最後には「こゝろもちはやすらかに」「すこしわらって」ついに星となって輝きます。

自己犠牲。

トシと賢治の心はいつもともにありました。
詩の中の(あめゆじゆとてちてけんじや)は
「賢治さん雨雪をとってください」というトシのことばです。
またローマ字で記された、まるで聖なる言葉のような
(Ora Orade Shitori egumo)は
「私は私は一人で天に行きます」の意味。
最後の( )もトシの言葉。
「今度、生まれてくる時はこんなに自分のことばかりで悩まないように(人々のために悩むように)生まれてくる」



花巻弁で朗読されたものを聴いたことがあります。

深い

深い

悲しみと絶望


でもそれだけでない
妹に対する崇高な想い
生きる道



宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を
娘が小さかった時、一緒に暗誦しました。

意味がわからなくても言葉に出して音にのせることで身体に入っていくものがあります。
「永訣の朝」是非朗読で聞いていただきたいです。

あるいは

声に出して詠んでみてください。



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永訣の朝―宮沢賢治詩集 (美しい日本の詩歌 11)

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牡丹のブンガク [文学]

牡丹は冨貴の花

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白居易(白楽天)の長恨歌の中では楊貴妃が喩えられている、将に女王の花。
でも、何故か女王でなくて王といわれているのですけど。
それに百獣の王獅子を合わせたのが唐獅子牡丹というわけです。


日本には平安以前から渡っているはずですが、万葉集や源氏物語の記述には牡丹の名はありません。
ただ、そうではないかと思われる別の名称の花はあるようです。

牡丹の名が登場するのは私の敬愛する清少納言の「枕草子」第143段

この段は、清少納言が使える、定子の父藤原道隆の没後、伊周(道隆の子)が事件を起こし(道長の策略だったといわれていますが)政権が道長の掌中に納まったという頃、定子も参内せず、また清少納言も里下がりをしている。理由は

なにともなく うたてありしかば  (なんということもなく、不快なことがあったので)

清少納言は、他の女房から道長よりの人間だといううわさをたてられて面白くないのです。
当時の男女関係が、今の常識を当てはめてどうなのかということはわからないのですが、道長は清少納言とも紫式部とも男女関係があったかのように言われていますね。
清少納言は枕草子では定子様ラブ[揺れるハート]の記述で占められていますから。


その里下りしているところに右中将(源経房)が来て、定子をはじめ、他の女房たちも里下がりを残念に思っている。出てこないか?と話す場面です。


かかる処に住ませ給はんほどは、いみじきことありとも、かならずさぶらふべきものに おぼされたるに、かひなく」とあまたいひつる語り聞かせたてまつれとなめりかし。まゐりて見給へ。あはれなりつる所のさまかな。 台の前に植ゑられたりける牡丹などのをかしきこと」などのたまふ。

(定子様がこんな淋しいところにお住みになっているときには、どんな不快なことがあっても必ず参上されるはずの人と思っていたのに、その期待もむなしく」などと多くの方が言っていましたが、貴女にお話申し上げろということなのでしょう。参上なさいませ。しみじみと感じさせられるご様子ですよ。台の前に植えられてあった牡丹などの美しかったこと」などとおっしゃる。)

牡丹はもう観賞用の花として植えられていることがわかります。ただ、源氏物語の襲(かさね)にも「紅梅」はポピュラーですが「牡丹」はないので、この時点での牡丹が主にどの色の牡丹をさしていたか不明ですし、現在の牡丹のように品種改良された大輪ではないのかも?栄養が葉に行き、葉ばかり茂っていた(いかにも茂りそうな葉ですよね?)かも?という気もします。


立てば芍薬 座れば牡丹 歩く姿は百合の花

こんな言葉も知らない若者が増えました。



白牡丹といふといへども紅(こう)ほのか     高浜虚子


この句が頭にあったので先日の牡丹の着物にはほのかなピンク色の帯をあわせたのです。


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タグ:枕草子 牡丹
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歌留多のブンガク [文学]

このところ、ブンガク記事、ご無沙汰してました。
モチーフとひらめくブンガクが揃わないと書けないのです[ふらふら]

でも、最近はブンガク記事が好き!とおっしゃってくださる方もいらして(ありがたいことです)

頑張って書いていきます。


ところで…今日のブンガクは歌留多です。

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先日国立東京博物館に着ていった、アンティーク反物から仕立てた牡丹の長羽織の羽裏です。


歌留多のブンガクとして取り上げたいのは

夏目漱石「こころ」


意外でしょうか?

そうですよね。でも、歌留多で最初に思いついたのが「こころ」でした。


「こころ」はいわずもがなですが…

学生時代、親友Kを死なせてしまった「先生」と、彼をを慕う学生の「私」。


「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」の
三部で構成されますが、多分皆さんが強い印象をお持ちなのが「先生と遺書」でしょう。
私とKとお嬢さんをめぐる策略と葛藤。利己心と慈愛。

Kの「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」という言葉は誰もが覚えていると思います。



「こころ」のどの場面に歌留多がでてくるかといいますと

Kを旅行に誘い、お嬢さんを好きだと打ち明けるつもりが言い出せず
おまけに、Kに「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と侮蔑したように言われ、もんもんとしている私。



そのうち年が暮れて春になりました。ある日奥さんがKに歌留多をやるからだれか友だちを連れてこないかと言ったことがあります。するとKはすぐ友だちなぞは一人もいないと答えたので、奥さんは驚いてしまいました。

と頑ななKの態度ですが奥さんとお嬢さんとに引っ張り出され4人で歌留多をやることになります。


こういう遊戯をやりつけないKはまるで懐手(ふところで)をしている人と同様でした。私はKにいったい百人一首の歌を知っているかと尋ねました。Kはよく知らないと答えました。私の言葉を聞いたお嬢さんは、おおかたKを軽蔑するとでも取ったのでしょう。それから目立つようにKの加勢をしだしました。しまいには二人がほとんど組になって私に当たるというありさまになってきました。私は相手次第では喧嘩をはじめるかもしれなかったのです。さいわいにKの態度は少しも最初と変わりませんでした。彼のどこにも得意らしい様子を認めなかった私は、無事にその場を切り上げることができました。

この出来事の二三日後Kは、私にお嬢さんへの切ない恋心を打ち明けるのです。

そして、私は策略をめぐらせ、Kに自分が言われた「精神的に向上心のないものは馬鹿だ」と言い放ち
逡巡しながらもとうとう奥さんにお嬢さんとの結婚の申し出をすることとなります。

その後は皆さんご存知の通り、Kは自殺し、罪悪感の中で誰にも(奥さんとなったお嬢さんにさえ)心をあかすことなく、絶望的な孤独の中で生きていきます。
「こころ」には「淋しい」という言葉が何度もでてきます。
「先生と私」の中でも先生(Kを死なせた私)は私に「私は淋しい人間です」と言います。

最後は明治の終焉と共に先生も自殺してしまうのですが、読み返すたび、この歌留多の場面でこころがざわつきます。




どうでしょう?この歌留多の様子…目に浮かびませんか?
何てことない場面で、読み流していた方、再読されてみてはいかがでしょう?




以前「こころ」がテレビドラマ化された時Kを若き香川照之が演じていました。
スゴイ迫力で、すでに弥太郎の片鱗が見てとれます(笑)
ちなみにお嬢さんは葉月里緒菜でした(魔性の女とか言われてましたね)

ところでこのお嬢さんの名前覚えてらっしゃいますか?






答えは「静(しず)」です。



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カメラのブンガク [文学]


今年も沢山の方にブログを読んでいただいて
沢山の出会いがありました。

本当にありがとうございます。


着物を着るようになってはじめたブログですが
この頃は
着物好きの方だけでなく色々な方に読んでいただいていて
ブンガクカテゴリーも気にしてくださる方が増えて嬉しいです。

なので

今年最後の記事はブンガク。

そして
私が写真を見るのが好きなことから
訪問してくださるようになった方も多くいらしゃるので


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今年の最後のブンガクはカメラ。
現代の作家さんの紹介です。
浅田次郎氏。


浅田次郎さんといえば「鉄道員(ぽっぽや)」でしょうか?
最近の作品では「蒼穹の昴」も話題ですよね。

でもイチオシは彼の自叙伝的小説「霞町物語」です。

頑固者の写真家祖父と元芸者のとびきり美しかった祖母。
父は写真館を継ぐために婿に入った祖父の弟子。
一人息子のボク。

「太陽の季節」を思わせる青春の日々。
ボクを中心に友人、家族をテーマに短編が続きます。


その中の「青い花火」


祖父の愛用の古びたライカのカメラと父のペンタックスのカメラが対照的に描かれます。
家庭にカメラが普及し、街の写真館が寂れていく中
祖父の写真の腕にも老いが迫ってきます。
祖父の写す写真はピンボケとなり
もはや籐椅子でライカのカメラを磨くのが日課となる日々。
そこにクリスマスに都電が花列車として走るというニュースが舞い込んできます。
祖父は張り切って家族を指揮し、花列車を撮ろうとするのです。
もちろん愛用のライカで…。

父も祖父を思いやり父としての思いを込めて
愛用のペンタックスでまた花列車を…。


二人の写真はどうなるのか…。



そしてその続編ともいえる「卒業写真」

少し引用します。

~青山絵画館を背にして祖父が銀杏の実を拾っている。一面に散り敷く朽葉の上に膝をつき、ステッキを投げ出し、旧式のライカを腰に回して、まるで何かを探しあぐねるように、祖父は背を丸めてはいつくばっている。冬の弱日が魔~物のように影を曳いている。  真実の木の実を懸命に探し続ける老いた芸術家と、その姿を見究めようとする弟子のまなざしが、二人のことなど何も知らぬ鑑賞者にもはっきりと感じとれる。~


父はこの写真でコンテストのグランプリに選ばれます。
祖父の名乗る「伊能夢影」という名で。
つまり初代「伊能夢影」を二代目「伊能夢影」が撮ったということ。

「卒業写真」は主人公の僕とその友人の、高校卒業の記念写真を祖父が撮る話なのですが、
そこに祖父と父のエピソードや
亡くなった祖父の一人息子の戦死のエピソード
そして祖父の死が描かれ
何度読んでもほろりとさせられます。




霞町物語 (講談社文庫)

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  • 作者: 浅田 次郎
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 2000/11/15
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吹き寄せ(葉を散らす風)のブンガク [文学]

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吹き寄せとは風に舞い散る葉や花びらの文様です。

九月つごもり、十月のころ、空うち曇りて、かぜのいと騒がしく吹きて、黄なる葉どものほろほろとこぼれ落つる、いとあわれなり。桜の葉・椋の葉こそ、いと疾くは落つれ。
十月ばかりに、木立多かる所の庭はいとめでたし。


枕草子

今の11月頃、空がちょっと曇って風が騒ぎ、黄色くなった葉がほろほろとこぼれ散るのは、しみじみとあわれだ。桜の葉や椋の葉はいっそう早々と散ってしまう。
11月ごろの木々の多い庭は素晴らしい。


風の良さというと、現代人は爽やかさにとらわれがちですが、平安の人々は台風の風や、枯れ葉を舞わせる風に風情を感じます。
吹き寄せ文様など現代人の感覚では模様として成立するのでしょうか?



日本人…平安人の感性の鋭さに驚かされます。
タグ:吹き寄せ
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紅葉のブンガク~源氏物語 [文学]

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源氏物語で紅葉が印象的なのは、その名も「紅葉賀」
青海波のブンガクの記事でも紹介した六条院の紅葉の御賀で
光源氏が頭中将とともに青海波を舞うシーンです。

木高き紅葉の蔭に、四十人の垣代、言ひ知らず吹きたてたる物の音どもにあひたる松風、まことの深山おろしと聞こへて吹きまよひ、色々に散り交ふ木の葉のなかより、青海波のかかやき出でたるさま、いと恐ろしきまでに見ゆ。かざしの紅葉いたう散り過ぎて、顔のにほひにけおされたる心地すれば、御前なる菊を折りて、左大将さし替へたまふ。 紅葉賀 

(紅葉の下で、40人もの垣代がみごとに吹き鳴らしている笛の音に合っている松風は、本当の深山おろしのように聞こえて吹き乱れ、色とりどりに散り交う木の葉の中から青海波を光輝いて舞い出る様子が恐ろしいほどに美しい。挿頭の紅葉が散ってしまっていて、顔の美しさに圧倒される気持ちがするので、御前に咲いていた菊を手折って左大将が差し替えなさる。)

光源氏の光っぷりが想像できますよね。

そして「藤裏葉」ではこの日の紅葉賀を思い出すくだりの後で朱雀院と冷泉帝が和歌を交わす場面。
(朱雀院は光源氏の母違いの兄、冷泉帝は光源氏の母違いの弟、実は藤壷との間の息子です。)

秋をへて時雨ふりぬる里人も かかる紅葉の折をこそ見ね
    何度も秋を経験し、時雨とともに生きてきた里人もこのように美しい紅葉を見たことはない

世の常の紅葉とや見るいにしへの ためしにひける庭の錦を
   世の常の紅葉と思って御覧になるのでしょうか。昔の例をひいて催した宴の紅葉の庭ですよ

いにしえの紅葉賀の時、冷泉帝は藤壷のお腹の中。光源氏の艶やかな舞いを最後に源氏と距離を置き、冷泉帝の出生の秘密を守り抜く決意をするのです。



そして、成長した冷泉帝は光源氏にそっくりになっていくのです。
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本のブンガク [文学]

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このところ読書周期に入っています。
夏の末から仕事で小説を十数冊読まなきゃならなくて
ちょっとうんざりしていたのですが
仕事じゃなくなると俄然読みたくなる[たらーっ(汗)]

本がテーマの本を読みました。
角田光代さんの「さがしもの」
本をめぐる9編の短編がおさめられています。
古本屋や貸本屋が健在だったころの
本棚=その人の脳や性格だったころの
愛しい本のお話たちです。
何度古本屋に売ってもどこかで巡り会う本「旅する本」
時や場所を超えて、本にはさまれていた手紙と対話する「手紙」
祖母から頼まれた一冊の本を探す「さがしもの」

「ミツザワ書店」の店番そっちのけで、本を読んでばかりいる祖母に孫娘が「何で本屋になったの?」と聞くと
「だってあんた、開くだけでどこへでも連れていってくれるものなんか、本しかないだろう。」
と言うのです。

電脳社会の中で本はどこへいくのでしょう。




そんなジェネレーションギャップを娘との間で感じたのが、

恩田陸さんの「図書室の海」


学校を舞台に「サヨコ伝説」の秘密の話。

恩田さんの作品は「夜のピクニック」も「六番目の小夜子」も往年のNHKの少年ドラマシリーズを思い出させる学園モノ。
好きです。
ノスタルジーです。

その中で本についている図書カードの名前をたどり本を借りていくというシーンがあります。

娘にはこのシーンが???だったのです。
今やバーコードでピッという時代。プライバシーにとっても大問題なシステムでしたね(笑)

でもちょっぴり寂しい気もします。

だって
私の世代では誰もが一度はやったことがあるのではないでしょうか?




図書カードの貸し出し欄の好きな人の名前の下に自分の名前を書いてみる。
憧れの人の借りた本の足跡をたどり本を借りる。
自分が手にとった本にいつでも先を越されて記されている名前の人に興味を抱いたり、

同じ本を読んで友達になったり

紙の本を持ち歩かなくなると、ますますそういう機会は減って見知らぬハンドルネームで語り合うだけになっちゃいますね。


やはり私は古い世代の人間のようです(苦笑)
タグ:読書
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「雷桜」見に行きました [文学]

映画「雷桜」を家族で見に行きました。
家族で見に行く映画は、原作を「私」→「娘」→「夫ちゃん」と読んでいて
映画になるんだ~!と盛り上がり見に行くというパターンがほとんど。
「鴨川ホルモー」も「食堂かたつむり」も。

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でも今回は原作を読んだのは私だけで
しかも、映画を見ようと思ってから原作を読みました。
どこかの雑誌で(ダヴィンチだったかな?)蒼井優ちゃんが原作読んで
機会があるたびに「雷桜」いいよ、映画にしたいねと言っていて
それが実現したという記事を読んで気になっていたのです。
その上
このブログにもよく遊びにきていただいているLeafさんが映画のタイトルを描いたというではありませんか!


原作と映画は違うとは聞いていましたのでよけい原作は読んでおきたかったのです。



映画を見て
原作未読の二人は、そのままラブストーリーとして話を捉えていました。
私は、原作の、市井の人々の一人一人の描写が書き込まれている感じのほうが
時代小説的として面白いと思いました。



雷桜は雷(遊)の桜ですが、小説の中では桜は助次郎の桜でもあり、助左衛門の桜でもあり、又おやじ様の桜でもあったのです。
遊が山から下りてきて、村人や瀬田家の人々と確執があって、それをひとひとつ乗り越えていく。人とのつながりみたいなものが小説では感じられ、遊の人となりも、そこで具体的な深みを得ていると思います。

でも映画では二人に焦点を当てた物語。ロミオとジュリエットにたとえるのはどうかな?とも思ったのですが
それはそれで、
小説を読んだ人のイメージがそのまま美しい映像になって迫ってきました。
ラストはもしかして映画は違うのか?
と思いつつ見ていましたら、同じラストシーンで、

しかもこれはさすがに映像で見せられるとぐっと来ます。



蒼井優ちゃんのりりしい姿見て欲しいです!
タグ:雷桜
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彼岸花のブンガク [文学]

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彼岸花は別名曼珠紗華。
法華経に出てくるサンスクリット語で「天上に咲く花」という意味です。
すっと伸びる茎と
手をいっぱいに伸ばして天に向かい踊る花弁

イメージにぴったりです。

でもこの花の地下茎には毒があり
モグラを寄せ付けないために墓の周りに植えられたといいます。

だからなのか
それとも真っ赤な花が連想させるのか
彼岸花には死のイメージがありますね。

それを決定的にしたのが北原白秋の「曼珠紗華」ではないでしょうか。
山田耕作によって曲にもなっています。

曼珠紗華

GONSHAN GONSHAN 何処へゆく
赤い御墓の曼珠紗華
曼珠紗華
けふも手折りにきたわいな

GONSHAN GONSHAN何本か
地には七本血のやうに
血のやうに
ちゃうどあの児の年の数

GONSHAN GONSHAN気をつけな
ひとつ摘んでも日は真昼
日は真昼
ひとつあとからまたひらく

GONSHAN GONSHAN何故泣くろ
何時まで取っても曼珠紗華
曼珠紗華
恐や赤しやまだ七つ

          GONSHAN…柳川方言で旧家の令嬢のこと

メロディーは知らないのですが、哀しい詩ですよね。
墓で彼岸花を手折る娘の詩をどうして歌にしたのでしょうね。

白秋はこんな歌も書いています。

秋の野にあまりに真っ赤な曼珠紗華
               その曼珠紗華取りて捨ちよやれ


童らが遊ばずなりて曼珠紗華
               ますます赤く動かであるも


    
また
彼岸花を沢山詠んだのは漂泊の俳人種田山頭火。

曼珠紗華咲いてここが私の寝るところ

悔いるこころの曼珠紗華燃ゆる

なかなか死ねない彼岸花咲く

石榴のブンガクでご紹介した尾崎放哉と
種田山頭火は一緒にいつか詳しくご紹介したいと思っています。

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石榴のブンガク [文学]

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高校に自転車通学の娘に先日
「お母さん、木に玉ねぎが成っているんだけど何だろう?」
と聞かれ
「玉ねぎは木に成らないでしょう。…柿?」
「いくらなんでも柿ならわかるよ。」
「下にぶら下がっている感じ?刺さっている感じ?」
「う~ん、刺さっている感じ。」
「じゃあ、かりんかな?」
(この時点でお絵かきタイムになっています。)
「でも、玉ねぎなんだよ。玉ねぎのシュッてなってるところが、ボサボサってなってるの。」
(意味わかりますか?)
「ボサボサって何~[わーい(嬉しい顔)]
私は泣きながら笑ってました。

結局それは石榴ではないかと…。

翌日私も通勤の時気にして石榴を見てみると


確かに玉ねぎでした(笑)


アホな母娘の会話にお付き合いいただきましてありがとうございます。

でも、そのくらい石榴はフルーツ界ではマイナーです。
ジュースや健康食品としては食したことがあっても
その実を生で食べたことがある若い人は少ないかもしれません。

私の実家には石榴の木があり、子供の頃は
ぱっくりと開いた熟した石榴をよく食べたりしていました。
実の中のルビーのようなプチプチ感と酸味
もしかしたら、私くらいの年齢の方には懐かしい思い出かもしれませんね。



石榴は人の味がする。

そんなこともよく言われました。

鬼子母神が右手に持っているのは石榴です。
『500人(千人とも一万ともいわれているそうですが)もの子供の母親でありながら、他人の子供を食う鬼神「可梨帝母」に釈迦が説教をし、石榴を与えて人肉を食べないように約束させた』という伝承から石榴は人の味がするということが伝わったようです。

それ以降、「可梨帝母」は「鬼子母神」という子育ての神になるのですから、子食いが子育てという真逆の神になったわけです。


中国では割れた実の中の種子の多さから多産のおめでたい文様で、
帯の柄にはよく見かけます。
先日のakirakoさんの帯もそうでしたし

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私も夏帯と袷帯の二本を持っています。

でも、これからの帯に石榴が描かれ続けるか…
若い方にも果実としての石榴覚えておいていただきたいですね。


さて、石榴を詠んだ印象的な句を!

石榴が口をあけた たはけた恋だ  尾崎放哉(おざきほうさい)

彼についてはまたどこかで詳しく書きたいと思っています。



鬼子母神がらみでもう一編。
鬼子母神と妖怪「姑獲鳥(うぶめ)」をからめてミステリーにした「姑獲鳥の夏」

私の大好きな作家京極夏彦氏のデビュー作です。

姑獲鳥は妊婦の妖怪です。
妊婦が死ぬと姑獲鳥になるといわれ、伝承の中には子供を攫うとも伝えられています。
その姑獲鳥に喩えられる二十ヶ月も子供を身ごもったままの妊婦。
その夫の失踪、連続して起こる嬰児死亡の謎。
いまだに彼の作品の中では一番好きな作品です。

実相寺監督が映画にしてます。
ヒロインの原田知世が温室で倒れるのをみて喜んだ同世代の方がきっといるハズ。




文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

文庫版 姑獲鳥の夏 (講談社文庫)

  • 作者: 京極 夏彦
  • 出版社/メーカー: 講談社
  • 発売日: 1998/09/14
  • メディア: 文庫


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