鳩のブンガク [文学]

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久しぶりにブンガクを…。

鳩が印象的に描かれているのは池澤夏樹「スティルライフ」

珍しく夫ちゃんも大好きな作品で、二人で何回も読み直しています。

 この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。
 世界ときみは、2本の木が並んで立つように、どちらにも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

という、やや理屈っぽい文で始まるスティルライフ。

私はこの小説で、ノーベル賞「ニュートリノ」の前にチェレンコフ光という言葉を知りました(笑)

バイト先で知り合った佐々井にぼくは奇妙なお願いをもちかけます。
3か月間期間限定の仕事。
ぼくは理由も目的も知らないまま、佐々井への好奇心からその提案を受けます。


ぼくが佐々井の部屋を訪れたシーン。佐々井はぼくに写真を見せるといいます。
ぼくはそこでありきたりの家族写真や、卒業写真を想像するのですが、
佐々井のスライドで写す写真は風景写真だったのです。


「ただの山の写真だ。特別に高い山ではないし、特別に名の知れた山でもない。だから見方にちょっとこつがある」と佐々井は小さな声で言った。「なるべくものを考えない。意味を追ってはいけない。山の形には何の意味もない。意味のない単なる形だから、ぼくはこういう写真を見るんだ。意味ではなく、形だけ」


ぼくはその写真に引き込まれ、自分が地表を構成する要素になった錯覚に陥ります。



人間はモノの意味にとらわれすぎないか…。




おっと「鳩のブンガク」でしたね。


鳩が印象的なのは、ぼくが、佐々井と神社隅のベンチで鳩を見るシーン。

少し長いのですが大好きな文章なので引用させてください。


目の前の地面をハトが歩いていた。あいかわらず人は来ない。午後も遅い時間に神社の境内などでぼさっとしているのはぼくだけだった。ハトは餌らしく見えるものをひとつ残らずついばみながら、二十羽ほどでその一帯を徹底的に探査していた。佐々井のことは考えてもしかたがないので、ぼくはハトに気持ちを集中した。しばらく見ているうちに、ハトがひどく単純な生物に見えはじめた。歩行のプログラム、彷徨的な進みかた、障害物に会った時の回避のパターン。食べ物の発見と接近と採餌のルーティーン、最後にその場を放棄して離陸するための食欲の満足度あるいは失望の限界あるいは危険の認知、飛行のプログラム、ホーミング。彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。そういうことがハトの頭脳の表層にある。  しかし、その下には数千万年分のハト属の経験と履歴が分子レベルで記憶されている。ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の延々たる時空を飛ぶ永遠のハトの代表にすぎない。ハトの灰色の輪郭はそのまま透明なタイムマシンの窓となる。長い長い時の回廊のずっと奥にあるジェラ紀の青い空がキラキラと輝いて見えた。単純で明快なハトの動きを見ているうちに、ぼくは一種のあたたかい陶酔感を 覚え始めた。 今であること。ここであること。ぼくがヒトであり、他のヒトとの連鎖の一点に自分を置いて生きていることなどは意味のない。意識の表面のかすれた模様にすぎなくなり、大事なのはその下のソリットな部分、個性から物質へと還元された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるということが、その時、あざやかに見えた。ぼくは数千光年のかなたから、ハトを見ている自分を鳥瞰していた。

                                         以上赤字部分  スティルライフより引用


「自分探し」とか「本当の自分」というものに違和感を感じていました。
私は、仕事して、結婚して、子供産んで育てていますが
目標や強い意志があってクリアしていったわけではなく

なんとなく、その時々の流れの中で「そうなっていった」方へ進んでいただけなのです。

でもそんな偶然には無意識の「私の意志」が含まれていて
それをひっくるめて神サマが決めているんだと思っています。


やわらかい意志とでもいうのでしょうか。

今の自分は偽りの自分だから苦しい、本当の自分を見つければ幸せになれるなんてことはないのです。

カギカッコでくくられる「ワタシ」という意味にとらわれすぎない
個としての私と自然物としてのわたしを感じることのできた作品でした。






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光のブンガク [文学]

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イルミネーションの美しい季節になってきました。



私は小説は文体を読むものと思っていますので、
原文で読めない(あるいはニュアンスが掴めない)海外小説は苦手なのが本音です。
高校時代読んだサガンは、朝吹さんの訳が既に匂いのある文体を持っていたので大好きでしたが。

あ、遡ると小学生の時に読んだルブランのアルセーヌ・ルパンシリーズもそうかもしれません(笑)
そういえば、アルセーヌ・ルパンが私の初恋の人でしたわ。


私の初恋話はさておき(笑)

中学生でドストエフスキーにはまったのち
なぜかフランソワーズ・サガンに落ち着くという…。

とりあえず思春期にかけて、世界名作といわれる作品をかたっぱしから読んだものの、
ストーリーを理解して満足、的な感じでした。
ですから
大人になって新たな作家を開拓することはなかなかなかったのですが
今回のブンガクはその数少ない作家、

ガルシア・マルケスの「光は水のよう」



9歳のトトーと7歳のジョエルが両親が不在の夜、
ボートを二階に上げ、
そのうえでドアと窓をすべて閉めて、居間の明かりが灯ったままの電球を割ります。

すると光は水のように流れだし、部屋を満たしていきます。
その中を二人はボートで航海するという話。
ストーリーを書いてしまうと味もそっけもないです。



後半少し引用してみます。

カステリャーナ通りを通りかかった人たちは、樹木の合間に埋もれた古いビルから光が滝になって落ちているの見た。それはバルコニーからこぼれて建物の前面を奔流となって流れ落ち、大通りを黄金色の激流となって流れながら、グアダラーマ山脈のふもとまで町中を照らし出した。

光が黄金色の煌めきに溢れながら流れ出る、幻想的な情景が目に浮かびます。
嬉々とする子供たち
歓声、拍手、弾む笑顔が見えるようです。

ガルシア・マルケスはコロンビア生まれで、ラテンアメリカは4人目のノーベル文学賞を受けた人。
「百年の孤独」が代表作品で、日本の知識人にも多大な影響を与えたといわれています。


この「光は水のよう」は「十二の遍歴の物語」に収められている幻想的な短編です。


興味を持たれた方は是非読んでみてください。





十二の遍歴の物語 (新潮・現代世界の文学)

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  • 作者: G.ガルシア マルケス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 1994/12
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予告された殺人の記録・十二の遍歴の物語 (Obras de Garc〓a M〓rquez (1976-1992))

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  • 作者: ガブリエル ガルシア=マルケス
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2008/01
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マッチのブンガク [文学]

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マッチのブンガク…。

すぐに思い浮かべたのが








寺山修司




マッチ売りの少女ではありません[わーい(嬉しい顔)]

意外でしたか?

寺山修司氏の顔はたくさんありすぎて、また、天井桟敷のイメージが強い方も沢山いらして

マッチ?????

でも、高校生の教科書にはちゃん寺山修司の短歌載ってます。娘の教科書にも載ってました。
最初に寺山修司と出会ったのは(忘れちゃったかもしれないけど)短歌だったかもしれませんよ。


私が最初に寺山と出会ったのは中学2年の時読んだ「家出のすすめ」でした。
内省的反抗期だった私は、妄想の中で家出や不良や変身を楽しんでました。

親との決別の時期に寺山修司があったことで
反抗期を表面化させず、
そのくせ内面的には
ラディカルに、ラディカルに自我を膨らませていくことになりました。


短歌に親しんだのは大人になってからです。

「田園に死す」や「草迷宮」の映画を経ての短歌でした。


大人になっていたことでこの短歌も青臭い思いで読まずに済みました。





マッチ擦るつかのま海に霧ふかし 身捨つるほどの祖国はありや  「空には本を」



マッチ売りの少女が灯すマッチの明かりには彼女の暖かい夢が映し出されていました。
でも、寺山の灯すマッチの明かりに映るのは霧の海。
しかも彼の故郷を考えるとイメージとしては青森の暗く寒い海。
この国を身を捨ててまで守ろうという思いはあるのか?


若者はいつも「今の若いヤツ」と言われますが、言ってる古いヤツもかつては若いヤツだった。


ちなみに娘の教科書にはこんな短歌も。



人生はただ一問の質問にすぎぬと書けば二月のかもめ 「テーブルの上の荒野」


娘にどお?と尋ねたら「わけわからん」ときっぱり[たらーっ(汗)]


まあ、少しずつ人生考えてね。


と…今日は娘話ではなく、寺山経験を語りたいだけです。

人格形成で影響を受けた映像は
多分「書を捨てよ町にでよう」と「消しゴム」だと思うのですが

やはり「田園に死す」と「草迷宮」は決定的でした。



私は親からの精神的自立は早い方だったと思います。
なぜ早かったかというと、束縛が強かったからです。
地方の土着性とは関係がないのですが、「ああすべき、こうすべき」が物凄くきつかった。
多分地方に住んでいたら、「地元の短大出て農協とかで働く」というような感じだったろうと思います。
幸い首都圏に住んでいたので違う道に進んでいますが
結婚するまで、外泊したことは(友人の家を含めて)一度もないですし
アルバイトも出来ませんでした。
基本的に夕食は家族で食べることが求められていたので
外食もほとんどできませんでした。

そんな父に反抗して飛び出すとか、喧嘩してでも自分を貫くとかという
強さやパワーがなかったともいえます。

そのかわり、そういうことを客観視するようになりました。
そこからが自立かな。




時代でしょうか。
今の若い子はもっと自由な気がしますし
そうかと思うと
自立なんて別にしなくてもいいんじゃない?
と思っているような気もします。




読書離れが進むはずです。


ああ…マッチのブンガクから随分話がそれましたね。



それでも寺山修司は今でも若者の心を捕えているのでしょうか?
知りたいです。


















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月見のブンガク [文学]

冬の訪れの前に月見のブンガクを書いておこうかと。


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十五夜は中国、台湾、韓国でも行われる風習ですね。おなじみ月餅は中秋を祝うお菓子です十三夜のお月見はどうやら日本独特の行事のようです。
十三夜の月そのものが美しいのもその理由の一つです。
しかし、同時にそこには日本人の美意識が込められているのではないでしょうか。


徒然草に
花は盛りに、月はくまなきを見るものかは。

という一節がありますよね。

望月のくまなきを千里の外まで眺めたるよりも、暁ちかくなりて待ち出でたるが、いと心深う、青みたるやうにて、深き山の杉の梢に見えたる木の間の影、うちしぐれたるむら雲隠れのほど、またなくあわれなり。                                                      徒然草第137段 (満月のくもりがない月をはるか遠くまで眺めているよりも、夜明け近くになって待ちわびて出てきた月がとても趣深く、青みを帯びている様子で深い杉の梢い見えている木々の間の月の光、さっとしぐれを降らせている一群の雲に隠れた有様などの方がこの上なく趣深い。)

この美意識。ぜーんぶ、100パーセントじゃない方が良いという感じ。
もうちょっとで満月になるよ~というその月に美しさを感じる。

ユーミンの曲にも「14番目の月」といのがありましたね[るんるん]

平安貴族たちも月見の宴では直接月見をするというよりも、
舟遊びをしながら水面に映る月を愛でるという、なんともまどろっこしい月見をしました。
これは、去年「紅葉のブンガク」の時にも書きましたが
紅葉もその美しさを表現するときは水面に浮かぶ紅葉として表現され、
色ずく紅葉は「変わりゆくもの」や「寂しさ」をあらわすことが多かった。



月と聞いて誰もが思い出す百人一首

    天の原ふりさけみれば 春日なる 三笠の山にいでし月かも  安倍仲麻呂


は望郷の思いを月に託していますし、竹取物語で、月をみて悲しむかぐや姫も故郷恋しさ。



ただ、秋の月の光は冴え冴えとしていて、朧月の春の月とは趣が違うことも確かです。
源氏物語で光源氏が弘徽殿の女御の四宮朧月と恋に落ちるのは春の月の下。
春の月の光は人を狂おしくさせ、
秋の月の光は淋しさを増長させる…のかもしれません。








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やもりのブンガク [文学]

もちろん着物の柄ゆきの話ではありません[わーい(嬉しい顔)]

爬虫類が苦手な方は写真スルーしてください。



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私は両生類と爬虫類は結構平気。
蛇はホースより太い青大将とかはさすがにちょっと[あせあせ(飛び散る汗)]ですが
カナヘビとかアマガエルなら素手でも[決定]


で、我が家にはこのやもりが住んでおります。
やもりは家守とも書く通り、家を守ってくれる生き物です。


以前建て替える前の実家の家には大きなカエルが住み着いていて
めったに姿を現さないのですが
年に一二度庭に「でんっ」と静かに家の様子を見ていることがありました。
父は「あのカエルは家を守っているんだ。」なんてよく言ってました。



さて、やもりのブンガク。

志賀直哉「城崎にて」です。

志賀直哉の作品は何をご存じでしょう?

「小僧の神様」か「暗夜行路」…そして「城崎にて」でしょか。


「名文とはすなわち、一文が短く、端的な文で構成されたものである。」
その例として志賀直哉は引き合いにだされます。
城崎にては私も傑作ではないかと思います。

電車にはねられて九死に一生を得た主人公(←この時点でええっ~?なのですが)が
その療養先に選んだのが城崎温泉。
生と死の分岐点で、偶然にも生を受けた主人公ですが
それを生かされたと感じられない心のまま、小動物たちの偶然の死を目撃します。
蜂、ねずみそしていもり。

その描写にやもりは一瞬だけ登場します。


「自分は何気なく、わきの流れを見た。向こう側の斜めに水から出ている半畳敷きほどの石に黒い小さいものがいた。いもりだ。まだ濡れていて、それはいい色をしていた。頭を下に傾斜から流れへ臨んで、じっとしていた。体から滴れた水が黒く乾いた石へ一寸ほど流れている。自分はそれを何気なくしゃがんで見ていた。自分は先(せん)ほどいもりは嫌いでなくなった。とかげは多少好きだ。やもりは虫の中でも最も嫌いだ。いもりは好きでも嫌いでもない。十年ほど前によく蘆の湖でいもりが宿屋の流し水の出るところに集まっているのを見て、自分がいもりだったらたまらないという気をよく起こした。いもりにもし生まれ変わったら自分はどうするだろう、そんなことを考えた。そのころいもりを見るとそれが想い浮かぶので、いもりをみることを嫌った。しかしもうそんなことを考えなくなっていた。」


主人公はいもりを驚かして水の中へいれようと石を投げます。
すると、石は偶然いもりに的中していもりは動かなくなります。

その場面。


「いもりは尻尾を反らし、高く上げた。自分はどうしたのかしらと思って見ていた。最初石が当たったとは思わなかった。いもりの反らした尾が自然に静かに下りてきた。すると肘を張ったようにして傾斜に堪えて、前へついていた両の前足の指が内へまくれ込むと、いもりは力なく前へのめってしまった。尾は全く石についた。もう動かない。いもりは死んでしまった。」

そして図らずも自らの手で死に至らしめてしまったいもりに対して

「いもりと自分だけになったような心持ち」がしていもりの身に自分がかさなってその心持を感じた。かわいそうに想うと同時に生き物の淋しさをいっしょに感じた。自分は偶然に死ななかった。いもりは偶然に死んだ。自分は淋しい気持ちになって、ようやく足もとの見える路を温泉宿の方に帰ってきた。」

そんな風に主人公は「淋しさ」を感じるのです。


「暗夜行路」や「和解」は読むのを途中放棄した私ですが
短編、「城崎にて」や「真鶴」は志賀直哉の凄さがわかる気がします。

この静かな淋しい(寂しいではなく淋しい)空気が好きです。


ああ、やもりはホントに一瞬だけです[たらーっ(汗)]
あくまでもそこから連想するブンガクということで。







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いずれがあやめかかきつばたのブンガク」 [文学]

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新宿のアンティークフェアーに着た着物の柄。

この季節になると花菖蒲とあやめと杜若の違いが話題になりますね。

アヤメは花びらの基のところがアヤメ(網目)になっているとして
花菖蒲と杜若…。
花びらの基が黄色が花菖蒲、白が杜若でしたっけ?

するとこの柄は何~[あせあせ(飛び散る汗)]

杜若ということにして[ひらめき]
「かきつばた」といえば伊勢物語の東下り

なんとなく知っているけど…という方も多いと思いますので復習してみてください[わーい(嬉しい顔)]

昔男ありけり。その男、身をえうなきものに思ひなして、京にはあらじ、東の方に住むべき国求めにとて行きけり。
   伊勢物語のモデルとされたのはご存じ六歌仙の在原業平。
   自分を「えうなきもの」=無用の者と思ってしまうほどの強い疎外感。
   命がけの恋をして、その女性がどうにもならない強力な力によって奪われてしまった無力感。
   そんな気持ちの中男は京都にはいられまいと東国へと旅立ちます。


もとより友とする人、一人二人して行きけり。道知れる人もなくて惑ひ行きけり。三河国八橋といふ所に至りぬ。そこを八橋と言ひけるは、水ゆく川の蜘蛛手なれば、橋を八つ渡せるによりてなむ八橋と言ひける。その沢のほとりの本のかげにおりゐて、乾飯食ひけり。その沢にかきつばたいとおもしろく咲きたり。

   今の愛知県知立市八橋のあたりです。
   伊勢物語は平安時代の作品。
   時をかけて平成から平安の地に想像を馳せることができるってスゴイことですね。
   光琳をだすまでもなく、八橋はおなじみの画材ですね。
   江戸時代の小袖にも八橋と杜若の柄ゆきの着物ありますし、伊勢物語は風流人には必須です。
   

   さてこの伊勢物語、

   「かきつばた」の五文字を句の頭に据えて旅の心を詠め、というお題がでます。

 から衣 きつつなれにし つまあれば  はるばるきぬる 旅をしぞ思ふ        (着物を何度も着ているとなれてくる、そのなれではないが、慣れ親しんだ妻が都にいるので、
        はるばるやってきた旅をしたものだなあと、この旅をしみじみと思うことだ)

       
  この歌を聞いて皆は望郷の思いで乾飯の上に涙を落としてしまいます。
  

  伊勢物語のこの段の前には以前「露のブンガク」でもご紹介した男が高貴な女を奪って逃げたところ、鬼  に食われてしまう話(鬼=女の追手で、実は女が連れもどされる話)があります。
  男(在原業平)の望郷と都にいる恋人(藤原高子)への思慕が伝わる場面です。
  伊勢物語はいわゆる古典文学のジャンルでは「歌物語」にはいるのですが、和歌が物語の核となってい   るところが抒情的というだけでなく、その材となる風物「露であったり、杜若であったり)が日本人の抒情性  に訴える点で愛されているのでしょう。






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菜の花のブンガク~和歌・俳句編 [文学]

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菜の花が似合う時間帯っていつでしょう?



        菜の花や 月は東に日は西に
                        与謝蕪村



夕焼けの柔らかいオレンジ色の光が照らす菜の花。
月が上りつつある黄昏時ですが、イメージとしては、光は月より太陽ですね。
牧歌的な春ののどかな風景が広がります。



そういえば、蕪村のこの俳句、万葉集のこの歌とよく比較されますね。




        東の野にかぎろひの立つみえて かえりみすれば月かたぶきぬ
                         柿本人麻呂

こちらは菜の花はでてきませんが、
朝方の白い冷たい月の光の中、東の地平線が朝日を受けて赤々と輝き始める。
180度の広大な空間と荘厳な空気感が表現されている和歌です。
季節は冬ですね。



両者とも月と太陽を対比させ、視点を東西と移動させる空間の捕らえ方ですが
全く違うイメージに出来上がっていますね。





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生きる [文学]

東日本大震災から一ヶ月。
もう一ヶ月なのか、まだ一ヶ月なのかわかりません。

今日も余震とは思えない強い地震がありましたね。
その後何度も何度も揺れてます。


それでも季節は動く。

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この一ヶ月ほど「生きる」ということを考えたことはありません。
自分が生きるということでなく、地球上の全てのものが「生きる」ということ。


大好きな谷川俊太郎さんの詩。

いつもいつも私の心の奥深いところにあります。
小室等さん(知ってますか?この方)が曲をつけて歌っていた


改めて読んで感動しています。


         生きる

生きているということ
いま生きているということ
それはのどがかわくということ
木漏れ日がまぶしということ
ふっと或るメロディーを思い出すということ
くしゃみをすること

あなたと手をつなぐこと

生きているということ
いま生きているということ
それはミニスカート
それはプラネタリウム
それはヨハン・シュトラウス
それはピカソ
それはアルプス
そべての美しいものに出会うということ
そしてかくされた悪を注意深くこばむこと

生きているということ
いま生きているということ
泣けるということ
笑えるということ
怒れるということ
自由ということ

生きているということ
いま生きているということ
いま遠くで犬が吠えるということ
いま地球が廻っているということ
いまどこかで産声があがっているということ
いまどこかで兵士が傷つくということ
いまぶらんこがゆれているということ

いまいまがすぎていくこと

生きているということ
いま生きているということ
鳥ははばたくとうこと
海はとどろくということ
かたつむりははうということ

人は愛するということ

あなたのてのぬくみ
いのちということ




実はこの詩…

私が中学1年生の時、ひとつ上の先輩が学校の校舎の3階から飛びました。
その時黒板に書き残したのがこの詩でした。

その先輩が何を思いこの詩を書き残したのかはわかりません。
本当は生きたかったのかもしれません。
もともと谷川俊太郎さんは大好きだったのですが
この詩は
その中でも特別な存在です。

いつも心のどこかにある詩です。


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菜の花のブンガク [文学]

4月に入り、春めいたかな?と思ってもまた寒の戻りで
今日はまた冬の空気。


でも、確実に季節は動いていますね。
以前もブログに書いたのですが、白木蓮はなんとなく切ない花です。
どうしてかな?と良く考えると


別れの季節の花だから…ということに気づきました。
送別会をした帰り、暗闇にぽっかりと白い花があんまりみごとに咲いている。
そんな光景を何度も見た気がします。
それで、白木蓮はなんとなく淋しいような
切ないような気がするのです。


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菜の花は明るい!
その明るさそのもののような文章があります。

青木玉の「幸田文の箪笥の引き出し」のなかの「すがれの菜の花」

母幸田文が仕立てた着物の話。


黒留代わりにも着られる華やかな黒い着物で、裾にあおあおと真直に伸びた茎にびっしりと花をつけた菜の花を描く。それは丁度黒い着物を着て菜の花畑に立っているように見えるというイメージのものであった。
その着物は、縁あって、幸田家に手伝いに来ていた女性が結婚する際に譲られます。

そのくだり

「奥様、私が何を言っても怒りませんか」 と切り出した。 「私は菜の花の着物を着てお嫁にいきたいんです。秋だろうと冬だろうとそんなこと構いません。新しい着物も欲しくない。私はあれが」 と泣き出してしまった。 菜の花時のうらうらとした眺め、土の感触、土に鋤き込まれても、油を絞られたあとまでも、たくましく物を育てる力になるこの花に、彼女の心は引かれて止まないのであろう。

「幸田文の箪笥の引き出し」はカラーの着物の写真も満載で、
質実剛健なんて言葉のぴったりとした
幸田家の着物のエピソードが綴られています。
黄色の花は春らしさを際立てるという記事も先日書きました。

楚々とした花は勿論美しいけれど

今はこんな元気な花が好きです。







幸田文の箪笥の引き出し (新潮文庫)

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  • 作者: 青木 玉
  • 出版社/メーカー: 新潮社
  • 発売日: 2000/08
  • メディア: 文庫



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竹のブンガク~竹取物語 [文学]


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竹のブンガクで竹取物語はまんまなのですが(笑)許してください。

皆さんはかぐや姫が何故地上に降りてきたか覚えてらっしゃいますか?


かぐや姫は罪をつくり給へりければ、かく賤しきおのれがもとに、しばしおはしつるなり。
罪の限りはてぬれば、かく迎ふるを、翁は泣き嘆く。

そう、かぐや姫は、罪をつぐなうために地上に降りてきたのです。何の罪なんでしょうね?


竹取りの翁に自分が月の人間だとカミングアウトする場面では


おのが身はこの国の人にもあらず。月の都の人なり。それを昔の契りありけるによりてなん、この世界にはまうできたりける。
と前世の約束事があったと話します。


それにしても、竹取の翁が竹の中でかぐや姫を見つけたとき、かぐや姫の大きさは3寸。



9センチの女の子!

しかも


この児養ふほどに、すくすくとなりまさる。三月ばかりになるほどに、よき程なる人になりぬ



3ヶ月で普通の成人女性なみに成長!


どういう細胞してるんだ!とつっこみを入れたくなる話ですが、
気になるのは3センチだったころから精神は大人だったのでしょうか。
罪を犯して地上に降りてきたのならそういうことになりますよね。
しかも、かぐや姫は穢れた地上で過ごす事そのものが罪のつぐないだったようで
地上では何をするでもなく、沢山の求婚者に無理難題をだすのみ。
ついに
帝がかぐや姫のうわさを聞いて自らやってくるのですが、かぐや姫は部屋の奥に逃げてしまいます。


袖をとらへ給へば、面をふたぎてさぶらへど、はじめて御覧じつれば、たぐひなくめでたくおぼえさせ給ひて 「許さじとす」とて、ゐておはしまさん
帝は袖をつかんで、隠している顔を見ると、この世のものとも思えない美しさ!
思わず
「もう離さないよ!」
と連れて帰ろうとします。

かぐや姫は頑なに拒否。しかも光り輝く姫は影になってしまうのです。
で、さすがの帝も出仕させるのを断念するのです・

帝が断念?



かぐや姫は「天の羽衣伝説」の流れを受け継ぐ物語といわれており、
古事記の時代から貴種の降下や放浪もお約束のストーリー。
最近嵐の大野君が演じた「怪物君」もそうですよね。
かぐや姫もそのパターンなのですが、
帝の寵愛をうけること=この世で最高の幸せ
という価値観の中、


もしかしたら、気が進まない…という女性がいたのかも。
で、天人だから断ってもよいわよね?という発想にしたのかも

なんて考えたり。



竹取物語、かぐや姫の無理難題にあの手この手を考える求婚者たちの様子も面白いし
かぐや姫が天に帰る場面での天人の高飛車ぶりがスゴすぎなので
そんなところにつっこみを入れつつ読むと、勉強にもなるし、
古典が身近に感じられたりもするのではないかと思います。







タグ:竹取物語
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